статьяGACKT「ネガティブな噂はどんどん流れる」それでも首里城再建グッズをつくる理由とは?
金城珠代2019.11.30 11:30dot.
首里城焼失から1ヶ月。沖縄出身の歌手・GACKTさん(46)は、火災翌日には自身のインスタグラムで「動く」と宣言し、一週間後には「首里城再建アイテム」を販売することを発表した。そこに込めた思いと覚悟は。
病弱だった幼少期を過ごした沖縄への「愛情」、本土で受けた差別、近代化する故郷に対する自身の考え方も明かした。
「首里城再建アイテム」はソロ活動20周年全国ツアーのオフィシャルグッズとして販売予定。コンサート会場だけでなく、今年12月中旬からオフィシャルサイトでも購入できるようになるという。収益全額を首里城再建の支援金に充て、ツアー終了後3か月以内に金額を公表する(撮影/伊ケ崎忍)
* * *
――GACKTさんがSNSで「一日も早い復旧復興のため、ボクも動いてみる」と宣言したのは、焼失の翌日でした。その後すぐに「首里城再建グッズ」の販売を発表しています。改めて、その思いを聞かせてください。
火災があったときボクは海外にいて、夜に「燃えている」という連絡があったけど、最初は何のことなのか理解ができなかった。ニュースで映像を見ても、最初はCGかフェイクニュースかと思ったぐらい。それが現実だと知って「うそだろ……」と、あまりにもいたたまれない思いだった。
その後に、沖縄の人たちや首里城に行ったことがある人、沖縄や首里城に何か思い入れのある人たちから「一緒に動いてほしい」「自分にできることがあればやりたい」とたくさんのメッセージが送られてきた。もちろんボクも動こうとは思っていたけど、そんなにたくさんの人が「動いてほしい」と言ってくるとは思わなくて。普段からインスタのメッセージはすべて見ているけど、今回はとにかくすごい量だった。それもあって、翌日には「やる」と宣言したんだ。
その後、事務所の人たちに「やるべきことがあると思う」と話して、みんな「そう言うなら、やるしかない」と応じてくれた。
個人的に寄付もするけれども、それだけだと役目を果たしていない。考えを強要するようなものではないけれど、表に立っている以上、少しでも力になりたいと思ってくれる人を増やすことがボクらの仕事だと。だから、ただ「寄付しました」ではなく、参加できる場をつくることに意味がある。
(撮影/伊ケ崎忍) ソロ活動20周年を記念した全国ツアー「GACKT 20th ANNIVERSARY LIVE TOUR 2020 KHAOS」が来年1月からスタートする。全国8カ所20公演、約6万人の規模。チケット情報など詳細はこちら
特に今回は、ボクも思い入れが深い首里城がこんなことになって、同じウチナーンチュとしてできることはなんだろうと考えた。というのも、最後に首里城を訪れたときをはっきり覚えていて、NHKのBS時代劇「テンペスト」(2011年放送)で、首里城の城壁を歩いていくシーンを撮影したときだった。正殿や普段はなかなか入れないエリアにも入れてもらい、感慨深いものがあった。ボクはボクの形で、やるべきことをやり、少しでも沖縄に恩返しができたらいい。
――そうだったんですか。プライベートがベールに包まれているので、「ウチナーンチュ」という言葉が出てくるのが意外で……。
いや、「謎に包まれている」と思っているのは周りの人たちで、実はボクはすごくオープン。沖縄のことも、プライベートも隠していない。
ボクは親がウチナーンチュで、7歳まで沖縄に住んでいたけど、その後は内地(本土)に移って。16歳のときに一度、沖縄に戻ったんだけど、その後はずっと離れていて、次に戻ったのは26歳のとき。だから姉はウチナーグチ(沖縄方言)を話すけど、ボクは片言でしか話せない。
――ときどき語尾に付く「さ」は、ウチナーグチの「さ~」ですか?
あはは(笑)。姉の喋り方が移っているのかな。標準語で喋っているつもりなんだけど(笑)。
ウチナーグチは片言でも、沖縄人としての誇りは強くある。いまは時代が変わったけど、ボクらが小さいころは差別もあった。今更それを掘り返す必要もないけど、自分の中ではマイナスには働いていなくて、当時は「絶対に負けない」という気持ちだった。海外で(出身地を)聞かれたりするけど、その度に、沖縄人というナショナリティーを持っていると気付かされるし、沖縄人として恥ずかしくないように、とも考える。もしかしたら、沖縄に住んでいる人たちよりも離れた人のほうがそういう気持ちを持っているのかもしれない。
ボクは沖縄をずっと外から見ているから、すごく冷静に見ている部分もあるし、住んでいる人たちよりもかえって愛情が深いところもある。地方に行ったときに「何を食べたい?」と聞かれて、「沖縄料理を食べに行こうか」って言うことも少なくない。
(撮影/伊ケ崎忍)
外から見たらよくわかることってたくさんある。例えば、本島中部の金武町は昔、沖縄にしかない街の空気感や雰囲気がものすごくあった。でも今は近代化されすぎて、内地と何も変わらないと感じてしまう。
これはボクの持論だけど、日本国内でも近代化していく街や地域はたくさんある。でも近代化された街は、その瞬間は最先端に見えたとしても、ほんの5年、10年経つと古い街、遅れた街になる。
昔の街並みをなんとか保とうとすることは、ただ時代遅れになることではない。古き良き時代を大切にしている、大切なことがそこに存在していると誰にでも伝わるものになる。それこそ人の心に触れるものであり、そういうものを見に行きたいという人はたくさんいる。それが人を引きつける観光資源になる。
――7年前からマレーシアに住まれて、海外にいるから見えてくる良さや課題もあるんですね。
それもある。文化や歴史の保存という点では、正直、日本はもう取り返しのつかないところまで来ている。京都や金沢でもどんどん近代化が進んでいて、特に京都は文化を守らなければいけない街だったはず。
ヨーロッパでは建物を壊すにも許可がいるほど、厳しい法律の下で歴史的な建築物や街並みが守られている。もっと日本もその街にしかない建物や風景を保護することが必要なんじゃないのか。国をあげて文化を守り、観光資源にしていくことを本気で考えないと、大切なものをどんどん失ってしまう。そういう危機感がとてもある。
――今回の再建支援アイテムは、購入する人がそういうことを考えるきっかけにもなるかもしれません。
あくまでもボクの考え方だから押し付けるつもりはない。ただ何よりも人の思いが集まることに意義があるんじゃないかと。残念ながら沖縄のシンボルである首里城と、多くの資料は焼けてしまったけれど、「みんなの力でもう一度、首里城を取り戻そう」という思いが、県内・県外の人たちと少しでも共有できたらいい。再建されたものは、確かに新しくリメイクされたものではあるし、人によってはリアルじゃないと言うかもしれない。でも、そこに人の思いが乗っかって新たなスタートをきることができたら、それは単なるリビルド(建て直し)を超える意味を持つ。それがすごく大切なこと。
他人事ではなく、ほんの少しでも自分の思いを乗せる。そのサポートをボクはしたい。
――2017年の沖縄国際映画祭で“凱旋”したときにも「沖縄の役に立ちたい」という言葉を使っていたのが印象的でした。ソロ活動20周年を迎え、来年1月からは全国ツアーも始まりますが、キャリアを重ね、考え方が変わった瞬間などありましたか。
自分の中で考え直すきっかけは、2003年に30歳の誕生日を迎えたとき。もともと病弱で、ボクは自分の人生を30までと決めていたんだ。だからそれまではとにかく走ろう、やらなきゃいけないことを全部やろうと焦っていたし、怖さもあった。26歳でソロになり、なんとか結果を残そうともがいていた。とにかく自分のことに必死で、ほかのことを考える余裕がなかった。
(撮影/伊ケ崎忍)
ところが30歳という一つのラインを超えた瞬間に、スッキリしたというか、死に対する恐怖がなくなった。ここまで頑張ったから、いつ死んでも大丈夫。あとは後悔がないよう、笑っていられるように毎日を過ごそうと考えるようになった。そこからはボクにとっての余生。そして、これからの人生は誰かのために何かを残していこう、大人としての使命を果たしていこうと。いろんなことをやるようになったのは、それから。
ただ、正直、大義を掲げているわけではなく、勝手に動いている。ボクに関わる事務所の人たちは大変だ(笑)。
――東日本大震災のときもボランティアや募金活動をされていましたね。
震災のときは瞬間的に「やらなきゃ」と思って、芸能界で人脈が広い川崎麻世さんにすぐに電話で相談した。麻世さんが呼びかけてくれて、日本中から100トン近くの物資を集め、1週間で被災した方たちに届けることもできた。当時は異常な寒さで高速道路も寸断されていたから、一日でも早く物資を送ることを優先して、自分のあらゆるコネを使った。関西からガソリン車を手配して、ガソリンや灯油も運んだ。それが終わってから、被災地でボランティアをやり、復興のために基金を立ち上げて全国一斉の街頭募金もやった。
3月11日から4月1日までの間、24時間態勢で動いていたから、ほとんど寝ていなかった。全国の仲間からひっきりなしに連絡がきて、海外からも支援をしたいという声がたくさん届き、実際にボクの家で被災した人を受け入れたり、仲間もずっと出入りしていたから。
でも、その後の方がきつかった。ゴシップやそういうネタを書いて商売しようとする人が、必ず攻撃してくるだろうと覚悟はしていたけど、自分の想像を超えていた。人の汗のかき方に文句をつけ、挙句の果てにボクが義援金を盗んだとまで言われ……。参った。悲しいを通り越して、笑ったよ。本末転倒ってこういうことを言うんだなとさえ思った。
(撮影/伊ケ崎忍)
バンドのメンバーにも「辛くないのか」って聞かれたんだけど、優しさを誰かに提供するとき、それ以降に起こることを受け入れる覚悟と責任が伴う。例えば、車を運転していて、車線変更ができない人に道を譲ったとする。何も起こらなければ親切な行為になるけど、その人が急ブレーキを踏んで自分が追突したとする。怒って降りてきて「どこみて運転してるんだ」って言われたら、どうするか? 「入れなきゃよかった」って思うなら、そもそも覚悟が足りないってこと。
もちろん見返りを求めることはないけれど、それどころか仇となって返ってきたり、よくわからないことで攻撃されたりすることもある。それを含めて受け入れる覚悟が無ければ、そもそもやるべきじゃない。
――今回の「首里城再建グッズ」も、その覚悟で?
ボクがやるべきことはやる。再建のリーダーではないから、首里城を再建する人たちの手伝いがほんの少しでもできるなら、その部分をボクは担う。
いまだにネットでは義援金を盗んだとか散々書かれて、それが海外のニュースに載ったりしてうんざりはしてる。自分がやったこと以上に叩かれるし、ネガティブな噂はどんどん流れるし。まあ、それもしょうがないな(笑)。
――最後に、沖縄の将来について、こうなってほしいという希望があれば教えて下さい。
沖縄に対してというより、沖縄に住んでいる人に対してですが、ウチナーンチュとしての誇りを忘れないでほしい。沖縄人として守らなければいけないことって何なんだろうと、この機会に考えてみてほしい。
歴史的な問題も含むからあまりボクが言うべきことではないかもしれないけど、ボクらはある意味でいろんな歴史の壁を受け入れてここまで来た。だからいまこの平和な時代に、一番、平和ボケちゃいけない。過去を振り返り、危機感を持たなければいけないし、沖縄人としてやらなきゃいけないことは何なのか考え直すとき。ボクはそう思う。
(聞き手/AERA dot.編集部・金城珠代)
Вопрос: Прочитал?
1. Like! |
|
2 |
(100%) |
|
|
|
Всего: |
2 |
@темы:
GACKT,
фото,
Япония,
J-Rock,
news,
ГАКТ